2017年9月30日土曜日

凩や


凩や鐘引きすてし道の端 正岡子規

私は音文がわからない。音楽は好きだが、歌詞はよくわからない。
特に俳句は、全然わからない。
良い俳句は読んだだけで情景が想像できると聞くが、私は俳句から美しい情景を想像した経験は皆無だ。

でも、正岡子規の俳句「凩や鐘引きすてし道の端」は好きだ。
この俳句は正岡子規の散文集?で読んだとき知ったような遠い記憶しかない。
この遠い記憶から、なぜ、この俳句が好きなのか話そう。

「凩や鐘引きすてし道の端」を読んだとき、まず、情景より先に鐘の音が聞こえる。
そして、四畳半の床の中で横になっている正岡子規のつぶやきが聞こえてくる。

「山寺の鐘の音はどうして悲しい音なんだろうね」
「山寺の鐘は遠い昔、山寺より遥か彼方で作られ、長い期間をかけて山寺に運ばれただろう。
でも、運ばれる最中の夜は「道の端」の暗闇に引きすてされ、寂しく悲しい思いを幾晩も味わったはずだ。
そんな山寺の鐘だから、道の端に置き去りにされた夜のことを思い出して、寂しく悲しい音を響かせるのだろうね。」

私は「凩や鐘引きすてし道の端」を読むたびに、物語を想像し、山寺の鐘の音を感じる。

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