2019年9月17日火曜日

蜜柑

私は芥川龍之介の「蜜柑」が大好きだ。この文章はほんの数分で読めるから、何か文章を読みたくなった時よく読む。この文章を読み終えると安堵感と心地良さを感じるけど、なぜか同時に悲しみもこみ上がり目頭が熱くなる。私は長年、この文章を読むとなぜ悲しみを感じるのか不思議でならなかった。



連続爆弾魔「ユナボマー」と若きFBIプロファイラーを描いたNetflixオリジナル作品(ドラマ)「マンハント」を一気見した。最高に面白かった。このドラマを見て自分の脳裏に焼き付いたことがある。それは主人公と比較言語学者が交わした「スラブ人の国」の話だった。

スラブ人は同じ言語を語る人々で欧州の各地にいた。でもこのスラブ人がどこから来たのかだれも知らなかった。しかし、その秘密は彼らが喋る言語に隠されていた。彼らが喋る言語で「木」に関する単語だけが、スラブ人が今住んでいる場所特有の単語になっていた。7世紀頃、言語学者は無数に存在する「木」の単語から、スラブ人の言語には元々「木」という単語が存在しないことを推測した。そして、ウクライナのプリピチャの湿地帯には木が存在しなことから「スラブ人の国」はこの地である、と見いだした。この話を聞いた若きFBIプロファイラーは、「ユナボマー」から送られてきた膨大な量の犯行声明の文章から存在しない何かを探だすことを試みる。私は、この文章から存在しないものを探すという発想が新鮮だった。

「マンハント」を見た私は若きFBIプロファイラーのように芥川龍之介の「蜜柑」という文章に隠された悲しみの源を探し出す試みを行う。まず「蜜柑」を読み通常の小説には存在しているのに、「蜜柑」に存在しないものを列挙してみる。

1. 登場人物の名前
2. 登場人物のアイデンティティ
3. 会話
4. 物語
5. 登場人物のその後

このことから「蜜柑」という小説は、写実的な文章と感情描写のみで構成されていると言える。そして、登場人物の情報がないことから、小説の主人公が人間でないことも分る。この文章は大正時代の横須賀あたりを走る汽車の中の出来事だ。つまりこの小説が発表された1919年という年のある日ある時間の横須賀あたりをタイムスライスしたときの断面を描写した小説が「蜜柑」と言える。アニメションプログラムのコードを書くのが好きな私はこのことから「蜜柑」は「レギオン」のプロローグで語られた過去と未来予測から導き出される「今」を示す文章だと思った。

「ホームランド」でキャリーがCIAの秘密を知るきっかけとなったのは、イスラムの穏健派指導者がある時を境に過激的思考になった時期をタイムラインを利用し割り出したことにあった。私もこのタイムラインを利用し「蜜柑」に隠された「今」の解明を試みる。まず手始めに1919年を「今」と仮定し日本の過去と未来を戦争という悲劇的な出来事で可視化してみる。


戦争の悲劇度は戦死者の数だ。だから、1919年を「今」とした場合、日清、日露戦争が過去で太平洋戦争が未来になる。上記可視化データは日清、日露、太平洋戦争の戦死者数をベジェ曲線(A~E)でつないだものだ。このベジェ曲線から太平洋戦争は日本という国が経験する最大の悲劇だったことが一目でわかる。そして、このベジェ曲線に、「蜜柑」で描写された「小娘」とその「弟達」のタイムラインを重ね合してみた。この「小娘」とその「弟達」のタイムラインから

・「小娘」は東京大空襲を切り抜けただろうか。
・「弟達」はお国の為に戦死しなかっただろうか。

と私は「小娘」と「弟達」が悲劇に遭遇していないか気がかりになってしょうがない。これは、1919年の百年後2019年を生き、太平洋戦争を過去として知る私だから感じる事なのだろう。でもなぜか「蜜柑」を読むたびこの悲しに近い感情が湧き上がってくる。もしかすると「蜜柑」という文章には、私に悲しみを感じさせる何かが隠されているとしか思えない。

1919年は日露戦争勝利から十数年しか経過していない。そんな状況から当時日本は自信に満ち溢れていたと思う。だから当時の自信みなぎる人々が描く日本像が帝国主義だったことは容易に推測できる。そんな「今」だから、帝国主義に異を唱えるものには暴力という制裁が下される近未来が訪れるは当然の結果だ。

自由に文章を書くことが出来なくなった、芥川龍之介は「将来に対する唯ぼんやりした不安」を感じていた。古書を読破した芥川龍之介にとって帝国主義の末路は分っていた。でも、その「不安」を具体的に文章にすることが許されない時代だ。物書きが文章を書けない苦痛を私は分らないが、書きたくても書けないことはストレスを生み、そのストレスが精神を蝕んだことは想像できる。だからこの「蜜柑」で言いたかったことは反戦、反武力、反帝国主義だったと思う。つまり、帝国主義ではこんな純粋な心を持った「小娘」「弟達」を不幸にする、と訴えたかったのでは思う。

私はこの「蜜柑」を読むたびに「朗ほがらかな心もちが湧き上つて来る」、と同時に現実感がない話だと思う。十数歳の「小娘」であっても走る汽車の窓を開けると他の人に迷惑が掛かることは理解できるはずだ。それに、走る汽車から物を投げ渡す行為を「小娘」ごときにできるはずないから発想すらしなかったはずだ。だから、私は「蜜柑」で描かれていることは芥川龍之介の空想もしくは遠い昔の記憶だと思う。

私は「ギレルモ・デル・トロ」監督の「パンズ・ラビリンス」が好きだ。この映画は現実逃避から自分の作り出した空想の世界に逃げ込む「少女」の話だ。私は映画を何度も見ているから結末は分っているが、見終わった後かならず涙を流す。己の死により空想の世界を完成させるなんて、統合失調症の幻覚がなせるわざとしか思えない。でも現実社会が暴力で解決するような社会であれば、ちょっと感受性が豊であれば統合失調症を発症するのは当然だ。

「パンズ・ラビリンス」の「少女」と芥川龍之介に共通性を感じる。そして、私が「蜜柑」を読む度に感じる「悲しみ」は自分の命を空想に捧げた「パンズ・ラビリンス」の「少女」と未来に絶望を感じた芥川龍之介が重なり、この二人を助け出すことができない歯がゆさから来ているのだと思う。



「大草原の小さな家」でローラのお父さんが「人生は毎日の積み重ね、でもその一日が不安だったら、不安だけの人生になる」と言っていたが、芥川龍之介も未来をほんの少しポジティブに考えていたら死ぬことはなかっただろうと思う。