2019年10月21日月曜日

ジョーカー


ネタバレあり

この映画で二つだまされた。まず、アーサーが母親に愛されていなかったことだ。特に母親が養子のアーサーを虐待して入院した病院の記録に、アーサーを暖炉に縛り付けつる虐待をした理由が「泣かないから」だった。私その理由を聞いて大笑いした、だってジョーカーだぜ泣くわけないじゃん、赤ん坊のときから「大笑い」していたに違いない。それから、母親には愛されていなかったけど「隣人」の女から愛されていただろう、と思っが「はっ」とした。隣人の女との恋愛はアーサーの空想だと気づいた時、隣人に訪れた悲劇にジョーカーの残虐性を感じた。このことにより、ジョーカーがジョーカーである所以が生まれてから誰からも愛された経験がないことが明らかとなった。

この映画は「キャットウーマン」に比べたら断然面白かった。でも、私の潜在意識の中にいるジョーカーとは少しかけ離れていた。映画「ジョーカー」と私のジョーカーの違いを列挙して見る。


  • セックス‐アピールが人並以上にある。
  • 人に対して異常な執着心がある。
  • 目的がないのに行動を起こす。
  • カリスマ性はない。

スーサイド・スクワッドのハーレクイン(マーゴット・ロビー)のファンとしては精神科医という理性が最も重要な職業のハーレクインを虜にするぐらいの魅力がジョーカーにあるはずだ。ただしその魅力は私には絶対分らないだろう。ジョーカーはありとあらゆる悪行を行うがその目的は、金もうけとか、保身とか、などでなく自分の悪行で人が恐れおののく様を見て楽しむサディストで、人が苦しめば苦しむほど己のオーガニズムを感じるような悪人だ。ジョーカーはいつも大勢の手下を従えているが、その部下がジョーカーに忠誠を持っていたとは思えない。ジョーカーのことだから部下全員の弱点を見つけ、個別に脅迫していたことは明白だ。これが私の潜在意識にすり組まれたバットマン映画におけるジョーカーのイメージだ。

映画「ジョーカー」を見て気がつたのだが、私がイメージするジョーカーはバットマン在りきでバットマンを苦しめる好敵手としてのイメージだ。バットマンは正義のために自分の命を投げ出す覚悟があるヒーローだ。そんなヒーローを窮地に追い込むジョーカーは特に明確なアイデンティティを持つ人物である必要はない。つまり単なる悪役でしかない。だからバットマン映画においてジョーカーの人間性をとやかく考えること自体が愚かなことなのだろう。

映画「ジョーカー」は人間ジョーカーを語る物語としては最高な映画だった。でも、ラスト、ジョーカーを英雄に担ぎ上た民衆の歓喜を聞きながら、「ブルース・ウェイン」のバットマン誕生が語られたことは、この映画の救いでもあった。

「アイアンマン」なきMCU映画に希望をなくした私に、DCコミック映画という新た希望を与えてもらったことに感謝する。

2019年10月17日木曜日

東京大学・松尾豊氏に物申す

私は実業高校出で最高学府とは縁遠い人間だが、松尾先生に一言言いたい。

・MycinよりEMycin

私は'80年代第二期人工知能時代、「データベース性能診断エキスパートシステム」をNTT電気通信研究所で構築した経験がある人間です。松尾先生は第二期人工知能時代の説明でMycinのことにしか触れていないが当時の研究者及びコーダーはEMycinに注目していた。だから、私がエキスパートシステム構築にあたり研究員から教えれらたのは知識ベース作成方法であり、EMycinにあたるエキスパートシステム構築ツールの説明だった。私はエキスパートシステムつまりAIについて説明は受けていない。いや、私はネットワーク型データベースの教育を徹底的に受けことがあるデータベースのエキスパートだったから研究員やデータベース技術者が書いたルール仕様(概略図)を理解できた。それよりもエキスパートシステム構築ツール(DEC system20上で構築)のパワーには驚かされた。なぜなら、エキスパートシステム構築ツールでは、簡単に木構造が作成できアクセスできる高級言語だったからだ。当時のメインフレーム(IBM360の血を受け継ぐマシン)で見たことがないツールだった。だから当時、エキスパートシステム構築ツールはオブジェクト指向であると知り「オブジェクト指向=AI」と勘違いしていた。そして、オブジェクト指向が現代のコンピュータの主流になったことに何も違和感なく受け入れられる。

・isとparts_ofだけではない

 上記に示したようエキスパートシステム構築ツール(知識ベース)はオブジェクト指向であり当時も現在と同じように

1)継承
2)集約
3)コンポジション
4)関連
5)依存

が存在していたからルール作成で苦労することはなかった。ちなみにルールはメソッドチェーンで実現していた。

・脳は左脳だけではない

 私は'90年代後半からOpenGLを独学で勉強してきた人間だが、3Dグラフィックの進化が止まらない現状に技術を追いかけるだけで苦労している。特に西暦2000年以降の3Dグラフィック(GPU及びAPI)の進化は驚かされ続けている。主観だが3Dグラフィックがここまで進化した理由はデザイナーのクオリティ追及によるエンジニアに対するあくなき要求があったからだと思う。(ちなみに、日本の電子機器メーカーはこの要求に恐れをなしグラフィック関連技術から逃げ出した腰抜けどもだ。ゲーム機を製造販売している国として恥ずかしくはないのか、と言いたい)したがって、ディープラーニングも機械学習もこのデザイナーのクオリティ追及によるエンジニアに対するあくなき要求から派生した技術だと私は確信している。
 松尾先生のビデオでは、理系人間の育成だけを言っているように思える。(理系、文系と完全に分離しているのは日本だけだと私は思っている)先生は飛行機は飛ぶ為の機械であり雀のようにチュンチュン泣く必要ない、といいますがそれでは人工知能は構築できないと思う。飛行機も雀のようにチュンチュン泣く必要があるとエンジニアに要求する人材の育成も急務だと思う。それに人間の脳は左脳だけではないでしょう。なのに理系の人達だけで人間の脳を模写できると考えているところが時代遅れだと思われます。

フロントエンジニアはデザイナーである必要がある

2019年10月16日水曜日

芥川龍之介作品集

青空文庫が芥川龍之介の作品をXHTMLでデータ化している。このデータのほとんどを自分のサーバーに読み込み表示できるようして見た。



芥川龍之介

2019年10月14日月曜日

芥川龍之介「女」


「Sam Smith」の「 I'm Not The Only One」のミュージックビデオが好きでYouTubeで
何度も見た。綺麗に着飾った女が、男を満面の笑みを浮かべ玄関の戸口から見送る。
女は男の車が見えなくなるまで微笑んで見送っている。だが、男を見送った後、女は
嗚咽して泣き崩れる。その頃男は別の女と楽しい時を過ごしている。そして、
男は家路につく。家に着くと玄関の扉が開き、女が満面の笑みを浮かべ男を
出迎える。
私は笑顔で男を出迎えるこの女の心情が分らない。女の笑顔は男の
資産や財産目的なのだろうか。もしそうであれば、男の居ない家で泣き崩れるのは
不可解だ。

浮気して帰宅した男を満面の笑みを浮かべ男を出迎える女の不思議に自分なりの
解釈を考察してみることにした。

男が女を選択するのは簡単だ。高望みせず自分に気にありそうな女なら基本的には
誰でも大丈夫だ。
だが、女が男を選択する理由は多岐に渡る。その証拠に女性向け恋愛小説、
漫画は無限に存在する。では、女が男を選択する基準を主観的に単純に列挙してみる。

  1. 資産家である。
  2.  ハンサムである。
  3.  スポーツマンである。
  4.  ミュージシャンである。
  5.  高学歴である。
  6.  芸術家である。

上記に示した内容は男の集合体なのでクラスと考えて良い。では、このクラスの親つまり集約を
考察すると「上質なDNA」というクラスが考えられる。(DNAはそもそもが継承だ。
でも女が大多数の男から一人を選択するということから集約とした方がつじつまが合う。)



(資産家はDNAと関係ないのかもしれないが、資産家の家柄及び資産を生み出す為の資質を生れな
がら持っていると考えるとDNAは無視できない。)

女が男を選択する最も重要なことが「上質なDNA」であることは、女が子供を生むという重要な役割
を持っていることから理解できる。自分の子供は「上質なDNA」で有ってほしいと望むことはだれ
でも理解できる母心だ。これはフロイトが言うところの女の自我(エゴ)なのだろう。だが、女の
自我をそのまま許したら男一人に複数の女というハーレムを構成することになり、ひいては近親相姦を招き自分達の絶滅につながりかねない。だから人間社会は女の自我を抑え込む為、
婚姻制度を確立し、「女の幸せは結婚」という超自我(スーパー・エゴ)を家庭や学校ひいては
社会全体で女に植え付けた。

このように女の自我は「上質なDNA」の獲得と考えると、
「Sam Smith」の「 I'm Not The Only One」のミュージックビデオで浮気して帰ってきた男を
笑顔で迎える女の心情が見えてくる。この女は「上質なDNA」を確保する手段として浮気を見て
見ぬふりをした。だが、同時に、この女が「上質なDNA」を確保した暁には、浮気男に手痛い
しっぺ返しが訪れることも想像できる。

芥川龍之介「女」は雌蜘蛛の話だ。私はこの文章を読んだとき雌蜘蛛に対する悪意しか伝わってこなかった。
この雌蜘蛛は「女」のことだと思うから、芥川龍之介は女(特定の女だと思うが?)に悪意を持っていたとしか思えない。
ではなぜ、芥川龍之介は女に悪意を抱いていたのだろう。この疑問を解く鍵は女の「上質なDNA」
を確保するという自我にある、と考察できる。

女は「上質なDNA」を確保する手段として愚かな「策」を講ずる。これはよく恋愛の駆け引きとして小説や映画などの題材になる。でもこの「策」は男の争奪戦でしかない。しかし、これは「女の幸せは結婚」という超自我が効いている女達の話だから楽観視できる話だ。
最悪なのは、この超自我が効いていない女だ。

芥川龍之介「女」が発表されてのが大正9年だが、当時、テレビ、ラジオ、ましてはインターネット
もない時代だ。この時代の情報はもっぱら書籍だっただろう。だから小説家の芥川龍之介は
「上質なDNA」に分類される有名人だったから女達の憧れの的だっただろう。
そんな女達のなかに「女の幸せは結婚」という超自我が効いていない女が居ても不思議ではない。こんな女は「上質なDNA」を確保する為だったらありとあらゆる手段(悪い言い方で色仕掛け)
で芥川龍之介に迫ったと思われる。そして、「上質なDNA」でありかつ繊細な心を持つ
芥川龍之介は女のその行為を愛情と勘違いした。しかし、女は「上質なDNA」の確保という
目的を果たしすと、何も言わず乳飲み子と共に芥川龍之介前から消えた。この時の女に
裏切られた心情を綴ったものが「女」だと思った。

これは芥川龍之介「女」を読んだとき私の脳裡に浮かんだ内容だ。
もし芥川龍之介が「上質でないDNA」の男達のように寛大に女と付き合うことができたら
「女」という小説は別物になっていただろう。なお、この芥川龍之介「女」の感想は
「上質でないDNA」の代表格である私の芥川龍之介に対する嫉妬である。
(女にモテたいな。くそっ!)